序章「目覚め」


前から、『それ』の存在には気付いていたんだろう。
1年目のある当直の夜、ふと何かの気配を感じて振り返った。
その時は、そこに何かあるのか目で捉える事は出来なかったけれど。
それから何度も、同じような出来事があった。
徐々にその気配は強まってきているような気がして。
そして、2年目の研修も後半に入った頃。
初めて俺は、『それ』を見た。

その日も、やはり当直だった。
夜中に病棟から呼ばれ、その対応を終えての帰り道。
いつもと同じように、気配を感じた。
いや、いつも以上に、強く。
その気配に、今までは感じなかった悪寒を覚えながら、俺はゆっくりと振り返った。
そこには、何やらもやもやと黒い霧のような物が漂っていた。
夜の病院の廊下は明るいものではない。むしろ暗い。
その暗い中でも、その黒い霧はやけにはっきりと見えた。
霧の中に更に何かが見えた気がして、俺は目を凝らした。
じっと見つめたその霧の中から見えた物は。
自分が知っている限りの動物とは違った姿を持つもの。
ちょうど、テレビや本で見た事がある妖怪のような姿のもの。
・・・決して、現実で目にするなど思ってもみなかったような、もの。
俺は唖然として、言葉もなく『それ』を見つめていた。
『それ』が霧の中から身を乗り出すようにし、爛々とした目で、俺を見た。
『それ』と目が合った瞬間。
まずい、と思った。
危険を感じた俺は、震えそうになる足を無理矢理動かして、走り出した。
後ろを振り返る事は出来なかった。
全力ダッシュで当直室まで走ると、同じく当直の同僚たちの迷惑も顧みず、
勢いよく部屋に入り、ベッドに潜り込んだ。
夢だ。
これは夢だ。きっと悪い夢だ。
そう思いながらぎゅっと目を瞑った。
眠ってしまえば、いつもと変わらない朝になるはずっ・・・!
・・・そのままどれ位眠れずにいたのか。
ポケットに入れたままだった当直用のPHSの音ではっと我に帰った。
恐る恐る電話に出ると、上の当直の先生からの救急外来に患者が来ているとの知らせだった。
のそのそとベッドから起き上がる。
部屋の中を窺ったが、『それ』の気配は、どこにもなかった。
俺はホッと胸を撫で下ろした・・・

まだその時は、『それ』が何なのか俺にはわからなかった。
それを知るのは、その夜から2週間ほど経ってからだった。



その日は業務が忙しく、終わったのは夜も更けた頃だった。
明日の朝も早い。早く帰ろうと思った矢先。
中庭の片隅、大抵は死角になる辺りに何か光る物が見えた気がして、
一体何かと俺はそちらに向かった。
建物の陰からそちらを覗いた俺は、目の前の光景にぽかんとした。
周りを照らし出すほどに多くの光の粉が舞い散っている。
最初に見たのは、これの一部だったのだろう。
幻想的といえば幻想的な光景。
その中に佇む、1つの人影。
その後ろ姿に、見覚えがあるような・・・
見ているものに気を取られている内に、手に持っていたバッグが滑り落ち地面に転がった。
その音に気付いたのか、光の粉の中に立つその人が振り返った。
 「並木先生・・・どうしたの」
 「・・・片山先生」
俺の名前を呼んだその人は、1年目の内科研修の時、俺の指導医だった先生だった。
でも、舞い散る粉の光を浴びながらこちらを見ているその様は、
俺の知っている先生とはどこが違うようにすら見える。
 「先生・・・この光る粉、何なんですか・・・」
漂う粉に目を走らせながら、俺は片山先生に質問をぶつけた。
 「・・・見えるんだ、先生」
 「は?」
問い掛けに対する答えと外れた返答に、首を傾げる。
 「それなら、あれも・・・見える?」
片山先生が指差した先にあったのは、黒い霧。そして。
2週間前の当直の日、廊下で目にした、もの。
あの時目にしたものと同じもの・・・俺の言葉では、
『怪物』や『妖怪』としか表現出来ない・・・が、今、そこにいた。
光の粉に撒かれて、低く呻くような声を上げている。
 「あ・・・あの時のっ」
俺の心の中は「qあwせdrftgyふじこlp」といった状態であったが、
何とか口からは意味のある言葉を出す事が出来た。
 「ああ、もう見た事あったんだ」
そんな俺とは裏腹に、片山先生はやけに冷静だった。
むしろ余裕すら感じられる。
 「・・・っ、先生、後ろ!後ろ!」
光の粉を振り払おうとしていた『怪物』の手が、片山先生の背中目掛けて伸びてきた。
危ない!そう思ったが、知らず知らずの内に身体が竦んでしまっている。
だが。尖った爪が片山先生に届くより先に、その手に、そして『怪物』の身体に、
青白く光る紐のような物が巻きついた。
光る紐はどこから現れたのかと思えば、いつの間にやら『怪物』の方に向き直ってる片山先生の、
つい先程まで何も持っていなかったはずの手の中から伸びていた。
柄のような部分を手にしているところを見ると、鞭・・・なのだろうか。
片山先生が柄の近くの紐をぐいと引くと、その先の紐が『怪物』の身体をギリギリ締め上げる。
その強い力に『怪物』の身体はひしゃげるように変形していき、それにつれて呻き声も大きくなっていく。
やがて、絶叫と共に『怪物』の身体は弾けるようにして消え去った。
後には何も残らず、いつしか舞っていた光の粉もなくなっていた。
 「はい・・・終わり」
再びこちらを見た片山先生は、いつも通りの平然とした様子。
対して俺は・・・茫然自失。
 「・・・今のは・・・何なんですか・・・一体・・・」
やっとの事で、それだけ呟いた。
 「まあ、混乱するのも無理ないよね。詳しく説明するよ。・・・ここじゃ何だから、どこか行こうか」
そう俺を促す片山先生は、大人しそうで穏やかそうな、俺が下についた時の印象通りの雰囲気で。
もちろんそれだけでなく、冗談だって言うし、時には悪乗りする事もあったけど・・・
到底、今しがた『怪物』相手に戦っていた人物とは思えなかった。
・・・この人一体、何者なんだ・・・

あの怪物は、『病魔』と慣習的に呼ばれているらしい。
その名の通り、病気が形を取った物なんだという。
病院や診療所に巣食い、病気の人達に憑いては病状を進行させ、最終的には死に至らしめる。
健康な人に憑き、病を与える場合もある。
病気があるから病魔が生まれ、そして病魔がいるから病人が生まれていく。
まさに悪循環だ。
病魔は普通、人に見る事は出来ない。
ごく一部の人間だけがそれを見る事が出来る。
(いわゆる『霊感』に近い物があるのだろうか。俺は幽霊は見たことはないが)
片山先生がその「ごく一部の人間」であり・・・俺も、その1人なんだろう。
 「見る事が出来る人は、対抗する事も出来るんだよ」
片山先生が、そう教えてくれた。
病魔を見る事が出来る者は、ちゃんと訓練をすれば
先程の片山先生のように病魔に対抗する「術」を身につける事が出来るそうだ。
見える事と、術を使える事が何故連動するのかは片山先生にもわからないらしい。
もしかしたら、ずっと昔は当たり前のように医師による病魔退治が行われていたのかもしれない。
西洋医学が発展する中で、ごく一部の人間しか認識する事の出来ない病魔の存在は、
世間から忘れられていった。
そして、認識できる一握りの人間たちが、人知れず病魔と闘っていた・・・
と、これは片山先生と俺で出したただの推測だが。
病魔というのは、色々な姿かたちを取る。
人型、動物型、植物型、その他諸々、様々だそうだ。
片山先生も、同じ姿の物を見た事はないと言う。
だとしたら、今日見たあの病魔は、前に見たものと同じだろうか?
あの病魔が、ずっとこの病院に潜んでいて・・・
はっと、俺の頭の中に思い出される事があった。
あの当直の日の2日後、病棟で1人の患者が急変し、亡くなった。
当直の前の日から容態が悪くなっていたから、起こりえる事態だと思っていたけれど。
もしかしたら、俺の見た『病魔』がその人に憑いたせいかもしれない。
確証があるわけではない。
でもあの時、出くわした病魔に俺が何か出来ていたら。
もしかしたらその人は亡くならずにいたかもしれない。
主治医として・・・とはまた違った、後悔。
 「助けられるなら、助けたいよね」
片山先生が言った。
 「それなら、祓ってみたらどうかな。『病魔』を」
微笑みかけてくる片山先生の言葉に、俺は賛同した。
賛同した。
確かに賛同した。
医療とは違った側面だけれど、それで救える者があるのならいいと思った。
その思いは今でも変わってはいないけれど・・・


 「はぁ・・・」
病魔はこうして見ると結構現れるものだ。
医師としての業務をこなすその裏での病魔退治。
・・・病魔なんて見えなければ、もう少し楽だったかもしれないのに・・・
 「・・・はぁ」
外病院の当直明け、人の目を盗んでナースステーションでぐったりと机に突っ伏した。
自分の素養をちょっと恨んだ、並木修平、3年目の夏・・・


                                  <続く>

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趣味に偏りまくり、戦うお医者の話。
一応登場人物にはモデルがいるようないなくはないような感じなんですが。(つまりいるのか)
舞台もうちの病院モチーフの大学病院なんですが。
でもこの物語はフィクションであり実際の(略) ←当然。


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