1章 暗闘(1)


今よりおよそ半年前。
帝国皇帝は大陸全土に向けて休戦を宣言した。
それにより、大陸全体を巻き込んだ戦争は事実上終わりを告げた。
突然の休戦宣言に、何かの策略ではないかと危ぶむ者も少なくはなかった。
しかし、軍力として集めた傭兵たちの大量解雇と大部分の部隊の解散が、宣言が偽りではない事を物語っていた。
皇帝が何を思って戦争を始め、終わらせたのかを知る者は帝国内にすらほぼ皆無であったが、
休戦となる少し前に黄昏の地で女神に会った者がいたという噂と関係があるのではないかとも囁かれていた。
帝国軍に対抗するため立ち上がった連合軍も解散し、大陸は平和の時代に進んでいると人々は思い始めていた・・・


多くの冒険者達が暮らす街、旅人の街の北東に広がる絶望の草原。
草原の奥地の森には癒しの力を宿す泉が湧き出している。
かつては伝説的な存在だったこの泉にも、今では多くの者が訪れていた。
泉の水は傷などを癒すためだけでなく錬金の材料としても使われており、必要とする者は後を絶たない。
今もまた、その泉のほとりに1人の小柄な女性が佇んでいた。
肩にかかる茶色の髪。飾りの少ないクリーム色の衣を纏い、緑色の宝石のついた杖を携えている。
彼女の名はich。旅人の街の冒険者の1人である。
泉の水を入れた小ビンを身につけていた道具袋に入れると、ichは泉に背を向けて歩き出した。
差し込んでくる木漏れ日に、胸につけられた紋章が煌めく。
森の木々を象った王国軍の紋章である。
先の戦争でichは王国所属のウォーロック(精霊使い)として功績を上げていた。
それを評価され、戦争が終了した後に改めて王国軍の魔道部隊に迎え入れられたのだ。
軍とはいっても、今では魔物討伐などの治安維持が主な役割となっているため、戦時中ほど活動も激しくない。
ichは定期的に王国の城と旅人の街を行き来し、王国軍と冒険者という2つの生活を交互に行っていた。
今は一介の冒険者だが、凛としたそのたたずまいには戦争の中で戦い抜いた者の威厳が垣間見えるようだった。
森を抜けると、一気に視野が開け美しい草原が目の前に広がった。
木の枝では小鳥がさえずり、草の間からは小動物の影が見られる。
森のすぐ脇を流れる小川には、魚が泳いでいるのが見えた。
その様子を見ていたichの目に、少し離れた所で小川を見つめている男の姿が映った。
ほとんど後ろ姿であり顔はよく見えないが、濃紺のマントにも、マントの陰から覗く青い鎧にも、
短めに切りそろえられた黒い髪にも見覚えがあった。
声をかけようか迷いながら近付くと、気配に気付いたのか男が振り返った。
 「あれ、ichさん?」
 「光さん、こんにちは」
顔を見て彼に間違いないことを確認し、ichは安堵の混じった微笑を浮かべる。
 「珍しいですね。こんなところで会うなんて」
その青年・・・光は平静を装ってはいるがichがいた事に大分驚いたような様子であった。
光もまた旅人の街の冒険者の1人であり、ichとも顔見知りである。
 「そうですね。・・・川を見てたみたいですが、何かあったんですか?」
ichが不思議そうに首を傾げ、光の背後の川をちらりと覗いた。
 「あ、いや、何もないんですけどね。水が綺麗だなーと思って」
改めて尋ねられ、特に説明するような理由もなく光は誤魔化すように笑った。
腰には戦士らしく剣を下げてはいるものの、柔和そうな印象を与えるその笑顔からは戦士とは窺い知れないだろう。
光は聖戦士と呼ばれる職業にあり、これでも立派な「戦士」なのである。
 「確かに綺麗ですよね」
ichは光の隣でしゃがみこみ、川の中を覗き込んだ。水は透き通っていて川底がはっきりと見える。
手を入れてみるとひんやりと冷たかった。
 「モンスターが襲ってさえこなければ、いい所なんですが」
腕組みをして風景を見つめながら、光が残念そうに溜息をつく。
その言葉に、ichは川を覗いたままやや憂いを帯びたような表情を見せた。
 「王国軍にはモンスター討伐という任務もありますけど・・・モンスターも生物ですし。人間が生み出したものかもしれないと思うと複雑ですね・・・」
野にはびこる魔物たちの生まれた原因は定かではないが、一部は人間が生み出したものだという説が主流になりつつある。
砂漠に住む合成獣キマイラはその代表であり、古代文明が作り出した生物であるという記述が残されていた。
 「そういえば、光さんは軍に残らなかったんですね」
軍の事に触れて思い出したのか、ichが光を見上げて尋ねた。
光も2年半程前傭兵として王国軍に入り、それからしばらくは王国軍として戦争にも参加していた。
だが、半年前の休戦の後、軍の再編成の時期に多くの傭兵達と共に除隊している。
ichの方を見ないまま、光はああ、と苦笑した。
 「俺はあまり軍人向きじゃないですから。功績も実力もそれ程ないですしね」
何気ない事のように軽く流そうとしていたが、光の表情は少し暗い。
何か余程の理由があったのかもしれないと、ichは聞いたことを後悔した。
会話が途切れ、2人の間に沈黙が流れる。
その時。
 「お邪魔だったかしらね」
背後からの声が沈黙を破った。
2人は振り返り、一瞬目を疑った。
そこにいたのは青い髪をした20歳位の女性。身体にぴったりとした動きやすそうな服を着ている。
何より2人を驚かせたのは、その女性が地面から数メートル離れた宙に浮いている事だ。
彼女の背中には金色の「羽」がある。だが、天使や堕天使の持つ羽とは違っている。
それは金属で出来ており、両肩に背負うようにして背中に固定しているのである。
 「何だ?金属?」
 「むやみに近付かない方が」
羽の金属光沢に気付いた光はもっとよく見ようと前に出ようとしたが、それをichが腕を掴んで引き止めた。
ichの警戒した表情に、光も僅かに緊張する。
 「そもそも見たことない人ですが」
 「・・・貴方に用はないんだけど」
自分を気にしてくる光に、その女性は迷惑げに言い捨てた。
 「私が用があるのは、そっちの女」
 「・・・何か?」
女に指差され、ichは警戒の色を解かないままいささか硬い口調で尋ねる。
 「『コア』を渡してくれない?」
『コア』。聞きなれない言葉に、横で聞いていた光がichの方を見た。
 「何ですか?それは」
ichは表情を変えないまま聞き返した。
 「とぼけても無駄よ。貴女が持ってるのはわかってるんだから」
 「何の事だかわかりません」
少しの間、ichと女は睨み合うようにしていたが、
 「・・・まあ、いいわ」
青い髪の女が、ふっと冷たく笑った。
 「それなら殺して奪うから」
言いながら、左手に持っていた三叉の槍を構える女の目は、冷たい殺意に彩られていた。
脅しではない。光がそう悟った瞬間、女が動いた。構えた槍でichを貫こうと正面から向かってくる。
それと同時にichも動いていた。
ichを中心に風が激しく渦巻く。女が動く前からichは心の中で呪文を詠唱していたのだ。
あたかも、こうなる事を予測していたかのように。
 「ブリズ!」
ichの声に呼応し、渦巻いていた風が瞬く間に嵐となり女に襲い掛かる。
巻き込んだものを引き裂く嵐が荒れ狂う様を、ichは身じろぎせずに見つめていた。
やがて、風が収まった時、
 「・・・!」
そこにあったのは、無傷のままの女の姿だった。
 「その程度?」
女が不敵な笑みを浮かべた。
よく見れば、女の周りを透明な障壁が覆っている。この障壁が嵐を全て防いでいたのだ。
結界の存在に気付き攻めあぐねるichに、今度は女が槍で襲い掛かってきた。
最初の一撃をichは素早くかわしたが、女は間髪入れず次の一撃を繰り出してくる。
背中の羽で自由自在に空を飛べるため、女にとっては体勢はほとんど問題とならず、動きも機敏である。
2撃目のタイミングが予想以上に早く、槍がichの腕を掠めた。
さらに、女は槍を薙ぎ払った。ichがとっさに突き出した杖と槍の柄がぶつかり合う。
ややバランスを崩したichに追い討ちをかけようとした瞬間、
 「!」
何かに気付き、女はその場を飛び退いた。
今まで彼女のいた場所を、剣の一閃が切り裂いていく。
 「・・・光さん」
いつの間にか剣を抜いていた光が女に斬りつけたのだ。
 「状況は見えてませんが、何かヤバそうですね」
少し驚いた様子のichにそう声をかけ、光は仄かに刃の輝く剣を構え直した。
聖戦士は陽の力を操り剣に宿す技術を身につけており、力を宿すのに適した材質の剣を好んで使う。
精霊の力を宿した剣はこのように輝きを帯びるのである。
女を見据えるその表情は先程までとは違い真剣な物になっている。
 「何、貴方。邪魔するの?」
再び距離を取り空中に浮きながら、女は鬱陶しそうに光を見た。
 「どうもお前みたいなのは気に食わなくてね」
 「『お前』?私にはティリルっていう名前があるんだけど」
お前呼ばわりが癇にさわったのか、その女、ティリルは余計に不機嫌そうな顔になる。
 「知るか」
名前など知らないとばかりに、光はその一言でティリルの抗議を切り捨てた。
 「邪魔するのなら、貴方も一緒に殺してあげる」
ティリルが槍の先を光に向けて構える。
 「そう簡単に殺されてたまるか」
光もまた、剣を握る手に力を込めた。


                                  <続く>


【作者の戯言】
設定は「森と月」(女神小説)から2年以上後です。光は24歳ですね(ぇ
それにしてもボケっとしたやつだなぁ・・・<光


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